災害(竜巻)

    平成25年5月20日、米オクラホマ州ムーアで竜巻が発生し、甚大な被害が発生したことはご承知のとおりです。死者数は当初51人と発表されましたが、24人に訂正されました。子どもは9人で、まだ不明者もいるとのことです。

    報道では、「先生が救ってくれた。」とか「トイレに避難しなさいと指示してくれた。」など、先生の対応を高く評価してくれていますが、反面、シェルター役となる地下室に避難した一部の子ども達は、水道管が破裂して水浸しになり、溺死してしまいました。大切な子どもたちが災害の犠牲になってしまったこと、その命を救うことができなかった学校関係者の悔しさなど、胸に堪えないものがあります。

    また、「学校の管理体制は不十分であった。」ときびしく責任を追及されています。良かれと思った避難方法が、結果的に逆効果であった場合には、厳しく非難されるのでしょう。災害発生時には、本当に難しい選択を迫られることになります。正直、結果論だけで見ないでほしいと思う気持ちもあります。しかし、命にかかわる問題です。災害への備え、防災対策は、私たちに課せられた本当に大きな課題です。

 

    今、地震・津波がクローズアップされています。台風以外は事前の予知ができない状況です。常に備えるためには、今後、起こるであろう災害の仕組みを研究し、対策を考えていく必要があります。突拍子もないことと思われるかもしれませんが、現実の福島を見れば、原子力災害についても熟知しておく必要があります。何が起こっても不思議ではないという認識を持つべきと考えます。ただ、行政としては、法的、財政的な裏付けがなければ、対策も「絵に描いた餅」になってしまいます。明確な指示が出せるようにするためにも、防災対策に関する議論をしていきたいと思います。

 

    私自身も台風や竜巻で被害を受けた経験があります。「天災は忘れた頃にやってくる。」ではなく、「天災はいつでもどこでもやってくる。」と受け止めています。

 

 

 

    ここからは、私個人が竜巻の被害を受けたことを記します。もし読まれても、防災対策の参考にはならないことをあらかじめおことわりいたします。あえて参考になるとしたら、被災した時の覚悟、気持ちの整理(割り切り)、助けていただいた方への感謝です。

 

平成12年9月11日 午後5時55分頃、私の娘(当時高校3年)から電話がありました。

「お父さん、風で家が壊れてしまった。急に家全体がガタガタと震えだしたので、怖くなって、観音開きの洋服ダンスに隠れたとたん、ガラスが割れた。部屋の中はガラスや瓦の破片が散らばっていて、裸足なので歩けない。助けに来て。」ということでした。

9月11日、東海豪雨の日でした。

私は、町災害対策本部で、松田良男さん(前助役)と2人で、非常呼集した本部班員の

到着を待ちながら、関係機関等への連絡や情報収集にあたっていました。娘からの電話に対し、「すぐには家に戻れないので、そこでしばらく我慢して家族の助けを待つか、自分でなんとかしなさい。」と答え、妻に電話し、状況を聞きました。

隣の家の車が垣根を越えて、私の家の前の道路まで飛ばされていること。しかもひっくりかえっていること。家の車が2台、家にぶつかっており、ガレージのシャッターにめりこんでいること。シャッターが開かないので、中にある防水ブルーシートが出せず困っていること。家の中は、ガラスの破片が散乱しており、壁には瓦の破片が突き刺さっていること。屋根瓦の一部が飛ばされ、天井板の一部が剥がれており、家の中から空が見えること。雨漏りがひどいことなどの状況を聞きました。

幸い家族は無事で、家本体も大丈夫のようなので少し安心しました。

 

午後6時10分頃、報道関係から「竜巻が発生したようだが、場所はどこか。」との問い合わせがありました。報道関係の情報収集の速さに驚きながらも、自分の家とは言えず、「山海館付近のようです。」と答えました。

 

その後、テレビでは、美浜町の河和台で竜巻が発生して、家屋の損壊やけが人が出ているという報道がなされていました。

 

午後8時過ぎに非常配備の担当を他の職員に替わっていただき、家に帰ることができました。家の前には、警察、消防、心配して駆けつけていただいた地域の皆さんが大勢いて、私の父がいろいろと説明していました。私も皆さんから「漏電の心配があるのでブレーカーを落とした方が良い。」とか、「食事はしたか。」などのアドバイス、見舞い、激励の言葉をいただきましたので、お礼を言いながら、「皆無事で良かったです。」と答えていました。

 

しかし、その時、家の中では戦争のような状況が展開されていました。雨漏り対策です。

親戚が集まってきてくれて、被害のない部屋に畳や家財を運んでくれていました。二階の北側の3部屋の天井は雨水で膨らみ、天井板(40㎝×180㎝×2㎝位)が音を立てて何枚も落ちてきました。頭に当たらないよう注意が必要でした。一階の天井も水が浸みてきました。一階を守るためにはこれ以上の雨漏りを防ぐ必要がありましたので、ゴミ捨て用の大きなポリバケツ(実は民宿営業もしているため持ち合わせがありました。)を5つ、普通のバケツ、料理を運ぶための枠取りなどで雨水を受けて対応しました。小さなバケツは数分で一杯になります。大きなバケツも油断をしているとたくさん水が貯まり、重くて運べなくなります。雨は、小康状態になったり、豪雨になったりを繰り返しています。雨が激しくなると、「神も仏もないな」とか、「泣きっ面に蜂という状態だな」と思いながら、翌日の午前3時頃まで、全身びしょ濡れで雨との戦いを続けました。

  家中に、木と泥水の臭いが充満しています。何とも言えない嫌な臭いです。風呂に入りたくても、電気を落としているのでお湯も沸かず入れません。それでも1階の南側の部屋と台所は無傷であったため、なんとか生活することができました。

 

翌日になって、我が家の被害はまだ序の口だと思いました。家屋は半壊、車3台のガラスはなくなっていましたが、それでも、東海豪雨による名古屋市などの被害に比べれば、ずいぶんましだなと思いました。

 また、大勢の方にお見舞をいただき、励まされました。くじけていてはいけないという気持ちになりました。息子は大学生で東京にいたため、すぐには戻ってきませんでしたが、息子の高校時代の友達4人が翌日すぐに後片付けを手伝いに来てくれました。この時は感動しました。こんなに嬉しかったことはありませんでした。単純に、息子にこれほど頼りになる友達がいたことが親として嬉しかったのです。大勢の人に支えられて、堪え忍ぶことができました。元気をたくさんいただきました。

 

 当時、シドニーオリンピックがあり、高橋尚子さんが女子マラソンで優勝されました。

数々の試練を乗り越えての優勝でした。インタビューで「神様は、試練を乗り越えることのできる人にしか試練を与えない。」と語っていました。その言葉は、今でも私の胸に響いています。

 

体育祭や、地区のお祭りが近づいてきました。区長さんや祭礼委員さんは、私たち被災者にずいぶん気を配ってみえました。災害があったのに祭礼をやっていいのか、体育祭に参加できるのか悩まれていました。自分の考えを伝えました。「自分は当然参加する。不参加を考えること自体が論外である。やりましょう。」という考えでした。東日本大震災後、被災地では、祭り・行事などで元気を取り戻そうとされた活動が多くありましたが、その思いは自分には良くわかります。

何事もなかったように体育祭も地区の祭礼も実施されました。ただ、祭礼実行委員会の旅行のみが、十数名中4名が被災していましたので、中止となりました。

 

 時間とともに記憶は薄れてきました。被災後しばらくは、自分がPTSD(心的外傷後ストレス障害)ではないかと疑うような症状がありました。人には記憶を薄れさせることで、心的ストレスも無くすような自己防衛本能があるのでしょうか。記憶がなくなれば、ストレスもなくなるという原理です。しかし、原理に逆らうことも可能です。今の自分があるのは、支えてくれた皆さんのおかげなのです。記憶は薄れても、感謝の気持ちは忘れてはいません。生涯、感謝の気持ちは忘れません。

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