3月11日(土)
12年前の今日は、本校児童は6年生以外は生まれていない一昔前です。当時を過ごした人は、ひとそれぞれの3.11があります。個人的な内容で恐縮ですが、以下に記させていただきます。
12年前の私は、武豊町立富貴中学校で教務主任をしていましたが、野球部顧問のお手伝いでブルペンでピッチャーのボールを受けていました。「コントロールを安定させるコツは、前足のつま先でボールをリリースする感覚をつかむこと」などと、ピッチャー候補に伝えていたところ、長周期地震動で揺れた校舎内が騒がしくなりました。「永井先生、大変なことになってる!」と、同僚の先生に呼ばれ、練習を中断して職員室に駆け戻ると、映画でも観たことがないような映像がテレビで流れていました。屋外で動いていると感じられませんでしたが、室内で仕事をしていたほとんどの先生は、最初は「めまい」と錯覚し、その後に東北太平洋岸で巨大地震で、大津波が襲来していることを知ります。太平洋岸で広く津波への警戒される中、部活を終え下校する児童に状況を伝え、特に海岸には近づかないように注意して下校を見送りました。(今考えると、下校は方面別に教師が付き添うことが必要であったと反省しますが、当時は想定外の大規模地震に混乱していました)
東日本大震災の死者・行方不明者は22,000人を超え、当時大震災として教訓となっていた「阪神淡路大震災」を遙かに超える被害となりました。学校では新たに「危機管理マニュアル」の作成が求められ、「地震」「風水害」「不審者」「感染症」など、その対象を広げています。「想定外をつくらない」という教訓で、地震避難訓練も校外に避難場所を設定するようになり、入れ替わる子どもたちに毎年訓練を重ねています。
それでも、「自然の力は人の識見を上回る」謙虚な気持ちが大切です。子どもたちの命を最優先に守り抜くための術を叡智を集めて考え、更新し続けることが必要です。
*学校も児童宅の多くが沿岸部に位置する町内の小中学校(島内でもっとも高い日間賀小中を除く)では、津波想定を超える標高の場所に二次避難場所を設定し、全校で移動する体制がとられています。欠かせないのが地域協働体制です。区やまちづくり協議会組織と連携することが、いざというときの想定外を少しでも少なくする取組となります。